世界に誇れる『納豆』の話
昨日 知人と食事をしながらの『納豆』の話が出た。その人が言うには 納豆の誕生は 坂上田村麻呂の蝦夷地征伐の頃の話で 東北で誕生したのだという。納得しながら 話を聞いたが ネットでも調べてみた。
【納豆の分類】としては
納豆は、大きく分けて糸引き納豆と塩辛納豆がある。糸引き納豆の起源は明らかではないが、安土・桃山時代に広くつくられ始めたようである。煮た大豆をわらづとに巻いて熟成させる製法から「つと納豆」「味噌納豆」「わら納豆」と呼ばれた。
一方、塩辛納豆は、煮・蒸し大豆に大麦粉・小麦粉をまぶしてこうじ菌を繁殖させて、塩水に漬け込んで熟成させる。糸引き納豆よりも前に中国から伝わったといわれ、上方の寺院を中心につくられた。『毛吹草』(1633年)には、諸国の名産品として、浜名納豆、浄福寺納豆、観音寺納豆があげられている。
『自然+人間 農業技術 Virtual Museum』より
【納豆の誕生】
知人の言うように 納豆の誕生は 東北地方で その記念碑が 『納豆発祥の碑』(秋田県横手市金沢公園内)として存在する。
但し 時代的には 坂上田村麻呂の頃ではなくて もっと後の「陸奥守 源八幡太郎義家」の頃らしい。以下 源義家と納豆伝説にまつわる話を引用する。
永保三年(1083年)に「後三年の役」が起る。清原武則の子孫である真衡と同じ一族である家衡、清衡の間に発生した家督をめぐる争いであった。この解決に父、源頼義にかわって陸奥守として現地入りしたのが八幡太郎義家である。義家の圧力と真衡の急死により、争いはおさまるかに見えたが、さらに激突し、義家は、清衡を助けて沼柵の家衡を攻めたが、砦はかたく沼柵攻撃は失敗し、義家軍は陣容をたて直すために撤退し、家衡側も本拠地をはるかに堅固な「金沢柵」に移した。難攻不落の山城であったが、兵糧攻めにあい食料の補給ができずに凄惨な飢餓地獄となった。
戦意をなくした金沢柵はついに落ちて長びく東北の戦乱はおさまり、大寒波がもたらす凶作、兵糧不足の悪条件が、陣中納豆を生む背景となった。
「後三年の役」の時、農民に煮大豆を供出させたところ急ぎのために入れ物が間に合わず、俵につめてさし出した。これが数日経つと香を放つ糸をひくのでびっくりするとともに食べてみると意外においしかったので食用とした。農民もやがてこれを知り、自らも作って後世に伝えたといわれる。これが「おはよう納豆」の起源となった、という言い伝えがある。
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私は 四国生まれの為 上京するまでは 納豆を食べたことがなかった。最近では 日本全国で 納豆が販売されているが、30年ほど前は 関西、中・四国では お目にかかったことがなかった。
これは 冬場に 「青菜が生産できる地域」 と 「何も作れない地域」の差だったのではないかと思う。冬でも 降雪がなく青菜が作れる場所では 保存食を作る必要性は かなり低下する。
一方 東北地方のように雪が多く 冬場での食料確保が困難な地域では 保存食が発達していったと思われる。
「納豆」は 乾燥大豆の状態で長期保存し、必要に応じて作られていったのだろう。その他にも「漬物」だとか「山菜類の缶詰」など 様々な保存食がある。
気候・地理により 先人から積み上げられてきた「食に対する智恵」は 大幅に異なっている。
このように 私たちの今ある食べ物は 先人の遺産とも言うべきものだ。それを大事にしない手はないだろう。
納豆は 非常に優れた食べ物である。以前 テレビ番組でも 『嫌いであっても食べた方が良い食物』として 納豆をあげていた。
他の食品には 代替の品があっても 納豆には 代わりが無いということだろう。